当時JRが1人1万5千円で3日間、新幹線も自由席なら乗り放題の切符があり利用して行きました。釜石出身者もいましたから、凱旋帰国です。釜石出身者の紹介で陸中山田駅前の民宿に前泊をしました。
グーグル・マップ
先輩の父が漁師をやっていて、捕れたての蛸を差し入れて貰って、とても美味しく頂いたのを覚えています。当日の朝は皆で市場とか散歩をして、朝食後に松倉グラウンドに向かいました。
釜石駅からタクシーに分乗して行きました。タクシーの運ちゃんに行先を告げると、どこのチームか?と尋ねられたので、チーム名を名乗ると、聞いたことが無かったのでしょう。「最近は釜鉄も弱くなったからなぁ」と言っていました。地元では釜石と呼ばずに釜鉄と呼んでいるんだなぁと知りました。(確かに釜石だと皆、何処もかしこも釜石ですからね。)
テレビで見たことのある新日鉄釜石の松倉グラウンドに到着しました。感激で胸一杯です。
陸上競技部と一緒の部室の二階の畳張りの大広間で着替えをして試合です。
グラウンドは当時は土で乾燥していてカチカチだったので、スパイクのポイントが刺さらない位でした。グラウンドに出てランパスとかをして身体をほぐしていると、撤去命令が出て、グラウンド外に退去しました。スプリンクラーが地面から出て来て水撒きです。さすが新日鉄と驚きました。
試合はあれよあれよと言う間にトライを重ねられ、必死に攻めるもボールがつながらず、2トライを帰すのが精一杯で五十数点対十何点(5x - 1x)位だったと記憶しています。
地元や盛岡、北上、秋田の出身者のご両親やご家族、お友達などが沢山、応援に来てくれました。差し入れも沢山頂戴しました。
僅かな滞在時間でしたが、忘れられない想い出となりました。
かつては新日鐵の施設だった松倉グラウンドは、現在は芝が植えられて釜石市の球技場となっています。
新日鉄は溶鉱炉が1989年(平成元年)に休止してラグビー部は2000年(平成11年)に当時の東日本では最上位の東日本リーグから降格してしまい、新日鐵のスポーツ事業の見直しにより支援が縮小し、クラブチーム化して地元釜石の人達に支えられて釜石シーウェイブスとして現在に至っています。
2012年(平成24年)に新日鐵は、新日鐵住金となりました。
RWC(ラグビー・ワールドカップ)2019の開催地になった釜石を引き続き応援して行きます。
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